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緑ヶ丘アパート 2002.10.31
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▲松尾鉱山
絵はがき(1960年代)
まぼろしの雲の上の都市 −松尾鉱山 日本は明治維新を経て、早急に産業の近代化を推し進めた。当初近代化産業に必要な資源を国内に求め、石炭を筆頭に開発・供給が始まった。この中、松尾鉱山の歴史は明治15年、岩手県松尾村の佐々木和助、和七兄弟による硫黄鉱床の大露頭発見から始まる。東洋一の規模を誇り、標高1000m、人里離れた厳しい気候の山中に、独立した自治都市のように一つの会社が機能した。最盛期人口15000人の元山地区(緑ヶ丘)には、近代的な集合住宅、学校、病院、映画館(老松会館・友愛ホール)等が立ち並んだ。そしてマスコミはこれを「雲上の楽園」と呼んだ。 しかし、戦後は経済成長が進み、その資源は石炭から石油に変わり、鉱石、硫黄は発展途上国の安価な製品が国内に入り込む。この産業構造の変化に国内の「ヤマ」は軒並み閉山に追い込まれた、そして追い討ちをかけるように安価な重油脱硫黄が市場に放出されると、昭和44年、松尾鉱山も存命を断たれ廃山した。 この都市の記憶は、現在稼動中の新中和処理施設の周辺に無人となった廃墟群に垣間見ることができる。島沼の側に建つ松尾鉱山中学校、昭和26年に建設された県内初の4階建て鉄筋コンクリート造の緑ヶ丘アパート群。現在の学習院の施設は松尾鉱山病院を転用したものである。 大正、昭和の前半世紀、多くの人々がここで仕事をし、育ち、生活を持った。閉山後、全国に散った人々にとって大切なふるさとである。そして間違いなく日本の近代化時代を支えた跡である。
雲の上の都市のその後と現在 −新中和処理施設群 雲の上の都市はその後、「日本一の鉱毒水」と十和田八幡平国立公園の側に「廃屋と大量の堆積物と露天掘跡」、そして塵肺公害による「結核」を残した。鉱毒水は赤川を通じて本流の北上川に流れ込み、岩手県中央部の北上平野を南流し、流域に大きな影響を与えた。北上川は稀に見る酸性河川に変貌し、盛岡付近でも川は赤く染まり、死の川と化した。 この汚染された北上川の清流を取り戻すために、国と県が一体となって昭和51年、中核となる中和処理施設の建設が決定され、昭和52年から5年に亘る歳月と、約93億もの巨費を投じて昭和56年に完成した。この施設は旧松尾鉱山から流出する坑廃水を、鉄酸化バクテリアを利用して中和させ、上澄水は赤川へ放流し、沈殿物は貯泥ダム内に体積させている。一年中休むことなく常時24時間稼動し、年間900万立方メートルの坑廃水を中和処理している。 又、同時に発生源対策工事が行われ、露天掘跡と周辺に広がる堆積場では全体を被覆する為、整形、覆土、植栽等が施された。さらに地表水の堆積場等への流入防止のための水路、赤川の伏没水を防止する三面張等が行われた。 資源開発の難しさや安易な開発主義の影で、取り返しのきかない地球環境・生物環境の破壊は、現在も世界中に潜在化している。まさに、いたましい前例としても「雲の上の都市のその後と現在」は、人類がどこかで再び同じあやまちを犯さないための「近代化遺産」として大切にしていく必要がある。
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松尾鉱山年表 明治21年 最初の試掘願(佐々木和七・和助) |
(※ここにある松尾鉱山の写真・映像・資料の一部は松尾村 歴史民俗資料館から許可をもらい提供していただきました。)